2011年9月22日木曜日

目の前の人たちに何かをしてあげたいと思うこと

自分がトーゴで何と向き合っていたのか、前にちょっと書いてみたものが残っていた。

(投稿してもいいものか少し迷ったけど)


☆☆☆☆☆



トーゴにいたとき、題についてしばしば考えた。




活動の中で、本当に厳しいと思われる状況の中で生きている人と出会う機会がたびたびあった。


この人たちは大変なんだよ、貧しい上に病気だから、本当に大変なんだよ、

って言われた

エイズ関係の活動をしている団体だったので、HIVウイルス陽性の方に会うことがあり、

そうした方の多くは女性で、家族があって、貧しかった。

頭で分かっても、なんというか自分の問題として心でとらえるには至らなかった。

そういう自分は残酷なんだろうな、と思った






学習環境の劣悪さをすごく嘆いていた大学生に何人か出会った。

生徒の数に対して教授や教室が絶対的に不足しているらしくて、朝8時からの授業だと

6時に教室に行っても床に座るしかないと言っていた。

大学を出たとしても仕事を見つけるのはものすごく難しいと言っている女の子もいたし

(すべての仕事はコネで決まるらしい。外資系企業だとまた違うみたいだけど)

大学の環境が悪すぎたので、途中で大学を辞めたと話していた子もいた。

そういった話を聞いていて、ほぼ反射的に自分の大学や留学先の大学の環境と比べて、

このままでいいのかな、と思うこともあった

思考停止して、「自分には何もできないし、してあげたいという気持ちさえもわいてこない」

とか言ってていいのかな、って思ったことも何度かあった。






でも、何かを何かと比べて、たとえば”かわいそう”等の感情を持ったり、

○○すれば~~になって、問題は解決する!とか考えようとすること、

それ自体が信じられなくなってしまった。

というか、疲れてしまっていたのかもしれない。

目の前に存在して、比べようとしているものと、

自分がその基準にしたものの後ろにある前提条件の違いがあまりにも甚大に思えた。


比べる際の判断の仕方やものの考え方だって大きく異なるわけで、

そういうものを全部考慮するなんて途方もない作業に思えた。

その作業をすっとばしたら、

ただ”かわいそうだから”、何かして”あげよう”とすること、

同情すること、問題を解決したいと思うこと、

全部全部フェイクなんじゃないかと思えて仕方がなかった。


結局のところ前提条件の違いの全部を考慮して、かつ擦り合わせてなんてことは

不可能に近いと思った。

ツールとしての言語さえ違うわけだから。

言語が違うということがもたらす影響は甚大だと思っているんだけど。

神経質になれば、互いの言語のひとつずつの単語が意味することが完全にイコールになることは

ありえないのだから。




最終的には”目の前の人たちが大好きだから”何かしてあげたい、

と考えることが、いわゆる開発援助や、人助けの動機として一番不純じゃないんだろうな、という気がした。

理屈じゃない部分。魂に近い部分。

私はあのとき目の前の人たちを心から大好きだったわけじゃなかった。

ヒトとしての成熟度の問題でもあるのかもしれない

自分と全く関係の無い人たちを心から大好きになれるのか。

その人たちと関わりを持たない人生を選ぶことはものすごく簡単だから。

相手がたとえ日本人であったとしてもそうなのだと思う。

私は、家族だとか自分のものすごく近くにいる人以外を心から大好きになれるだろうかって自問したとき、

少なくとも、今はそんなの無理だって思った。

日常の悩みや願望を抱えて、うわっつらの”やりたい”のために、

真意に反した行動をとることだってままあって、自分さえも満足させられていないのに。

そんなことをずっと考えていた。

いつか、自分をちゃんと満たした上で、

周りの人、さらに海の向こうの人の気持ちに心から共感して、

何かをしてあげたい、と思える日が来たら、

また全然違った景色が広がっているんだろうな、と思う。




0 件のコメント:

コメントを投稿